20年前

2015年1月17日 日常 コメント (2)
もう、そんなになりますね。

上の子が小学校一年、下の子は3歳でした。うちは神戸でもほとんど被害のない地域だったのでみな無事でした。本当に幸いなことに私の周りはみな無事で、たった一つのけがが母が踏んだガラスの小さな破片のキズだけでした。実家の近所は8割以上が全壊 それも家が倒壊して沢山の方が亡くなりました。でも、実家は全壊にも関わらず建っていて、母は父と手をつないで家を飛び出たその背中をなでるようにタンスがひっくり返りタンスの上の人形ケースが母の布団の上に粉々になって割れていました。

両親は避難所で寝起きして実家を片付け、仮設で実家の再建を計画し実家の解体、ローンの事生活のこと・70になろうかという両親は止まる事なく走り回って、途中父は脳梗塞で入院したり、色々 色々ありました。数年して父は亡くなり・・・そう言えばうちの父はずいぶん早くに亡くなったなあ(67歳でした) と思いだし、地震がなかったらもっとのんびりした生活してもう少し長生きしてたのかもしれないな と思いました。

父が亡くなり そのタイミングでリコーダーと出会いました。音楽の大好きな父で 「こんなん やってみーひんか?」と言ってくれたのかもしれません。母と二人でリコーダーを始めて15年くらいになりますね。 お父さん 本当はお父さんがやりたかったんでしょ?戦後のどさくさでブラスバンドやってて楽器も楽譜もままならない学生時代だったから、年金生活になってもう一度なにか音楽やりたかったんだよね。

二十年前の今日 、父と母と連絡が取れなくて ようやく昼ごろに近所の人に避難所行かれてると思うよ と聞いたときどれだけ安堵したか。絶対無理だよ という声もありましたが主人に頼みこんで二人で山越えして実家まで。普段1時間もかからない道のりが6時間以上かかって。途中の惨状はすさまじいものでした。絶え間なく聞こえるサイレンの音、火事の火の粉 燃える音 爆発する音  そのすぐわきには何も見えない真っ暗な町並みがありました。テレビでいろんな映像を見る度に記憶がどっと蘇ります。

地震を覚えてる世代って多分、うちの下の子くらいかな。幼稚園前で思わず主人が上にかぶさって。揺れが収まってがちゃんがちゃんという音が静まって「わー、びっくり!」「お父さん、下にストーブ!タイマーでついてる!」「!いや!揺れたから絶対止まってるって!」「真っ暗けや、見て近くのマンションの非常灯だけついてる!」なんて、わいわい騒いでいる時に、ふと見ると天袋からおっこちてきた積み木をせっせと片付けて。「あらやだ!Sちゃん そんなのしなくていいんだよ」「だって、ばらばらになっちゃったよ」寒いから毛布でくるんで懐中電灯持たせてました。それがもう社会人ですもんね。

一年に一度はしっかり思い出す日。それが1月17日なのかもしれません。
温かい日があれば母と父のお墓参りに行ってこようかと思います。

コメント

ポピー
2015年1月19日0:17

20年の間にはいろんなことがあったけど、実際に大震災に遭った人たちに比べたら、大きな天災や事故に遭うことなく過ごしてこられたことに感謝しなければいけないなと、改めて思いました。
本当に大変でしたね。私が連日テレビに釘付けだったまさにあの中にいた人の体験談、身をつまされる思いです。もしも、自分のまわりに起こったら… タンスが倒れて人形ケースが布団の上で粉々… よかったね〜 飛び出した後で。
お父様も今頃、リコーダーの音色を聴いて楽しまれてるかもね。

ありす
2015年1月19日17:39

ありがとうございます。
50年も生きていれば、なんやかんや色々ありますね。でも、悪いことと同じくらいいいこともあったのかもしれない。とりあえず、私は元気で周りも元気でありがたいことです。あたりまえのありがたさをかみしめました。

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